農業のうつり変わり

 遠山谷だけではありませんが、山の村の農業はたがやす土地が少ないので、山をうまく利用すること

によって、くらしをたててきました。

 その一つとして山を焼いて畑をつくる、いわゆる焼き畑農業がたいへんさかんでした。

よく山に入ると、石がきをつんだところや、茶の木が生えているところを見かけます。

これは昔の焼き畑のあと地なのです。

 焼き畑をつくることを、遠山谷では「山さく」と言っていました。

 ところで焼き畑をつくるには、六月から七月にかけて、山の草を刈り、立木を伐っておいて、七月に

なって火を入れて焼きはらいます。

そしてソバの種などを、バラまいて山の下から、上の方に向かって、トンガで土を起こして行きます。

 次の年からは、アワ、ヒエ、大小豆といったものを作り、いく年かたつと土がやせてくるので、もと

の山にかえします。

 肥料は山を焼くときできた、灰だけですが遠山谷は土地がこえているのか、作物がよくできました。

 石がごろごろして、とても畑になりそうにもないところも、うまく利用して石畑もつくります。

ここには楮
(コウゾ)や、桑を植えましたが石が太陽熱を吸い込んで、よく作物が育ったものです。

 

※ ※ ※     ※ ※ ※

 遠山谷は養蚕がさかんになる前は、楮(コウゾ)が現金収入の主なものでした。

 この楮も時代がうつるにつれ、だんだん少なくなりましたが、昭和三十八年頃までは、須沢では細々

と栽培しておりました。

 楮とならんで、こんにゃくの栽培もさかんでした。

ある本によりますと、長野県で一番はじめに、こんにゃくを作りはじめたのは、遠山地方だとされてお

ります。

 それをうらずけるように、昭和十七年の長野県こんにゃく生産高の約三十五パーセントは遠山谷が占め

ています。文字どうり県下一の生産をほこっていましたが、戦後になってこんにゃく栽培に大きな転機が

訪れます。

 それは、こんにゃくが品不足で、ものすごく値だんがあがったことです。

昭和二十三年には、こんにゃく玉一俵(四十五K)が翌年には六、九〇〇円、ときには一万円にはねあが

ったこともありました。

 ちなみに、昭和二十三年のお米の値だんは、一俵(六十K)一、五四四円、二十四年は一、七〇〇円で

したから、いかにこんにゃくの値だんが高かったかよくわかります。

 こんなべらぼうな高値で、こんにゃくが売れたものですから、遠山谷の農家には思わぬお金がころげこ

んだのです。

 こうした馬鹿景気のなかで、取り返しがつかないことが起ったのです。

こんにゃく畑に、やたらに学肥料をまき散らし、こんにゃくを増やそうとしたからです。これがたたっ

て病気が発生し、またたく間にこんにゃくの生産がへってきました。

農家も農協も必死になって、いろいろの対策をしましたが、もとにもどることが出来ず、一部の集落を除

いて、こんにゃくは、姿を消して行きました。

          ※ ※ ※      ※ ※ ※

 遠山谷は、馬の飼育もさかんに行われていました。

明治初年には牛が十五頭、馬は五百七十七頭も飼われていました。

 たいていのうちに馬屋があって、一頭飼育が多かったわけですが、これは農業に使うのではなく、子う

まを生産して売ったり、こやしをつくるのが目的でした。

 秋になると、『ばくろうさ』が子うまをひいてきて農家にあずけて行きます。

 それから二年後、馬が三歳こまになると、『ばくろうさ』が、また子うまをつれてきて、いくらかのお金

を払って三歳うまと交換して行くのです。

 二年間の飼い方で、もうけが大分ちがうので、よい馬にするため、農家の人たちは一生けんめいでした。

 でも、馬を飼ってもくそもうけだと、よく言われたくらいですから、『ばくろうさ』にいい汁を吸われて

いたようです。

 

          ※ ※ ※      ※ ※ ※

 遠山地方で、昔はたばこが栽培されていたということは、あまり知られておりませんが、調べてみると専

売制
(せんばいせい)になる前は、たくさん作られておりました。

そして品質もよかったので自家用のほかは、飯田方面へ売られていました。 
                                                            
とくに上島で作られた、たばこは『源五郎たばこ』と呼ばれて、特別の値だんで取り引きされたといわれ

ます。

ところで、たばこの栽培ですが、大麦を刈りとった後に植えましたが、こやしには馬ふんを使用しました。

 また、たばこは虫がつきやすいので、農家では朝晩かならず虫とりをしました。

 秋になると、高さが二尺(六十六センチ)くらいのびるので、その葉を摘んで、縄につるして乾しました。

 乾いた葉を雪のなかに、一晩ほっておくと、またしわがのびますので、それをのし板にかけて石で押しを加

えてたばこにします。

 大体八貫匁(三十キロ)をひとこうりとして販売したそうです。

 自家用にするものは、カツラの板の上で、こまかくきざみ吸ったそうですが、三年くらいは一度に作ってお

いたということです。

 たばこが専売制になってからは、遠山地方では、たばこの栽培は全く見られないようになったと言います。

 

          ※ ※ ※      ※ ※ ※

 養蚕が遠山地方で、本格的に行われるようになったのは、日清戦争以後のことでした。

それがほとんど養蚕一色にぬりつぶされたのは、大正八、九年の頃です。                                            

 明治三十年頃までは、養蚕は年一回の飼育で、五円もとれればよいとされ、飼育の方法もきわめて幼稚な

ものでした。

 桑の栽培にしても、山桑土手桑の葉で飼ったもので、いわばほんの片手間の小づかいかせぎの程度でした。

 また上族(まぶしにあげる)の方法も、山から『ツガ』の木を折ってきてよく乾燥させて葉を落した

『モヤ』にまゆを作らせたと言います。

 桑の品種もコマキ、エンタカ、オオバ、シホウ咲きなどが主なもので、土手などにも「ヒダクワ』というの

も植えられていました。

 いまのように飼育の技術も進んでいなかったので、よくかいこをくさらしたものです。

 生産されたまゆは、仲買人の手によって集められ、馬の背や、さくどうにより、飯田の製糸工場におくられ

ました。

 もっと前には、小川路峠を越え、個人で売っていた農家もあったそうです。

 

         ※ ※ ※      ※ ※ ※

大麦や雑こくも、主食として遠山では、欠くことのできないだいじな作物でした。

お米の自給が二十パーセントにも満たない、南信濃村は、麦や、雑こくの出来ぐあいが、農家のくらしに大きく

ひびきました。

 戦争が終わり、食糧事情がよくなるにつれ、麦や雑こくの栽培がだんだんへってきました。

 それでも遠山地方では、大麦はうらさくにこんにゃくを作るため、まだ昭和四十年ころまでは、かなり作られ

ていました。

ちなみに、昭和四十一年度は、政府に売った麦だけでも、一、二三七俵もありました。

 それが四十九年には、たった一八九俵となっております。

 そして村の農業の方向も、経済の成長につれて大きく変わって来ました。

新しい作物として、静岡県から茶(やぶきた)が導入され本格的な茶の栽培がはじまりました。

また、小梅の栽培とか、しいたけの栽培がさかんに行われるようになってきました。

 かつて県下一の生産を誇った、こんにゃくが減産していくなかで、養産だけは農業収入のトップを占めていま

したが、これも近年になって、次第に生産がへっています。

  

 作物の歴史